生死で遊ぶことによる中毒性

前回、死からの再生と逃れられないロストを持つゲーム『Wizardry』について、書いた。

では、その世界で何を目的にダンジョンに入るのだろうか。

現実より少し死(ロスト)が遠いのは確かである。しかし、だからといって死が軽いものというわけではない。だからこそ、その目的が重要だと、死に値するだけの目的を持つに違いない、私なら思う。しかし、それが本当にくだらない目的なのだ。

一言でまとめるなら、ほとんど王の気まぐれである。これでは、ダンジョンに入るために生きているようだ。ダンジョンに入ることは、ほとんど死に直結しているのだから、言いかえれば、死ぬために生きているようなものだ。

王の気まぐれとしか思えない、そんな目的のために、死ぬために生きることを繰り返す。それはもうプレイヤーがゲームに飽きるまで延々とだ。

滑稽である。ゲームだ。いかにも「これはゲームだ」と訴えているようだ。

プレイヤーは王ではない。ダンジョンへと入るキャラクタを操作するが、キャラクタでもないように私は思う。キャラクタを何度ロストしようがプレイヤーには関係ない。もちろん、苦痛を強いられるかもしれないが、「ダンジョンを攻略している」という達成感もあるにはある。王の気まぐれを理由に、キャラクタを操作し、自身の達成感のためだけに、いたずらにキャラクタをロストする。わざとロストするプレイヤーはそう居ないだろうが、ロストするには違いない。

これはゲームで、プレイヤーは言葉どおり遊んでいるのだ。ゲーム中のキャラクタの生命を消費して遊ぶのだ。変に現実的な面を持つ、この『Wizardry』というゲームは、プレイヤーに死(ロスト)を意識させる。死を警戒しつつ、ダンジョンを攻略する。この緊張感と達成感が中毒性を持つのだ。