クレーマー

彼はクレーマーだった。

彼の言うことは、彼の都合ばかりで、こちらの都合をなにひとつ考えていなかった。彼のためにすべての力を注いでも、彼の期待にはこたえられそうになかった。彼は、彼のためにすべての力を注ぐにふさわしい対価を支払っていないようにも、私には思えた。彼の言うことは、極端であり、合理的でなく、無理があり、どうしようもないものだった。彼が客で、私が店員でなければ、完全に黙殺してしまっただろう。彼の言うことは、いわゆるクレームで、もっと言うと、どうしようもないクレームだった。そして、彼はどうしようもないクレーマーだった。彼はクレーマーで、私は店員だった。

彼がなぜだか頭に血をのぼらせながら話していたとき、私はいつもと違って冷静だった。いつもであれば、外面はニコニコ、内面はイライラとしているのだが、そのときは違っていた。体の調子だか、バイオリズムだかの影響かは自分でもよくわからないが、妙な感覚が、この状況をひどくばからしく感じさせていたのだ。「どうしようもないクレーマーに、イライラしても仕方ない」と割り切った、そういうことではなく、心底ばからしく、どうでもいいことのように感じたのだ。

それというのは、おそらく彼を他人とは思えなかったからだと思う。先ほどから「彼」と三人称で呼んでいる彼は、どこか私のようだったのだ。すがたかたちが似ているわけではない。しかし、その言動はクレーマーだったときの私によく似ていた。私も彼のようなクレーマーになったことがあった。それを思いだしたとき、私には彼を他人とは思えなかった。

私がクレーマーだったとき。そのとき、店員が私をどう思ったか・感じたかはわからない、私自身はあの瞬間どうしようもないいらだちを覚えていた。相手に対し、不満をぶつけ、その対応に対し、さらなる不満をぶつけた。

そのときの私が、店員の気持ちをすこしも考えられなかったように、彼は今クレーマーなので、私の気持ちをすこしも考えられないでいる。今の彼には、なにを言っても不誠実な対応としか受け止められない。彼はどうしようもないクレーマーなのだ。

クレーマーは気まぐれに生まれる。それが今日は偶然にも彼だった。今日は偶然にも私が店員だった。それだけのことだ。彼に非はないし、私にも非はない。彼にも私にも非がまったくないではないが、彼を責めることは、遠足の日に降る雨を責めるのとそう変わりない。天気に腹を立てることほど、ばからしいことはない。それはそれとして受け入れて、もっと有意義に、楽しい、一日を過ごすべきだ。

私は、なにか山を越えたような、そんな穏やかな気持ちだった。

ふと、私は理解した。真に憎むべきはクレーマーでない。責めるべきはクレーマーでない。そのクレームを馬鹿正直に受け止めて、逆らうことのできない命令を下す、我が上司である。こいつこそ、憎むべき、責めるべき、恨むべき、諸悪の根源だ。

どうしようもないクレームを馬鹿正直に受け止めてどうする。爆撃機を竹槍で落とすより対応困難なクレームを、それはそれはたいそうなことのように受け止めてどうする。お前の言う対応は「客が『車体を軽くしたい』と言っているから、タイヤを外せ」というようなものだ。理解に苦しむ。私はほとんどワーキングプアだが、こいつはまったく低能だ。

私はイライラしはじめた。私が客で、上司が店員だったなら、きっと私はクレーマーになっただろう。これはひどいロール・プレイだ。

私は山を越え、谷を越えた。目の前ではまだ、頭に血をのぼらせた彼が、なにか説教のようなものをたれている。どうしようもない。時間は貴重だが、早く過ぎてほしいと思った。たった750円の時給のためにも。