雨傘

傘がなくなった。傘立てに置いていたら、なくなった。

傘がひとりでに行ってしまうことはないから、誰かが持って帰ったに違いない。暗い色の男物の、骨の曲がった傘だったので、万人の欲しいものにはならないだろう。もし、好きな子からそれをもらったとしたら幻滅する、そんな傘だ。

彼は、彼女は、どんな気持ちで傘を持って帰ったのか。彼のものでない、彼女のものでない傘を、一体どんな気持ちでさして帰ったのか。私は、雨の日、傘立てにある、他人の傘を持って帰ったことがないせいか、その気持ちがわからない。私にはわからない。その傘を使うだろう人が、まだ建物の中に居るのに、どうして持って帰れるのか。なにが、彼を、彼女をそんな自己中心的な考えかたにしてしまうのか。

私が間違っているのかもしれない。

名前も知らない、彼は、彼女は、きっと幸せな人なのだ。すべてものが豊かで、自分のもの他人のもの、そんなことを気にしなくても良い世界に生きているのだ。幸せな世界に生きる、幸せな人なのだ。同じ空と同じ大地からなる同じ世界にいるはずなのに、私とは異なる世界に生きているのだ。

人は、同じものを見て、違うことを感じるのだ。これを理解しないことはひどく愚かだ。色弱の彼にも同じように色が見えていると思いこんでしまうのと同様だ。感じかた、見えかたは、人それぞれなのだ。私の傘をさして帰った人の世界では、傘立てにある他人の傘を──まるで自分の傘のように──さして帰ってもなんら不自然なことはない。自然なことなのだ。立ててあるものは使う。自然に、熱いものに触れれば火傷するように、雨に当たれば濡れるように、当然のことがらなのだ。

私が間違っているのかもしれない。私はこの感覚の違いを理解しておかなければいけなかったのかもしれない。傘立てに傘を立てるという行為が、傘の所有権を放棄することだったり、傘の共有を宣言することだったりする。そんな世界を持つ人が居ると理解しておかなければいけなかったのかもしれない。

悲しい気持ちになった。

帰るころには、雨はあがっていて、濡れることはなかった。

嫌になった。