待つ人

私は信号の変わるのを待っていた。せいぜい5メートルの短い横断歩道だ。よくこんなところに付けたものだと感心するほどの距離に、丁寧に「歩行者用」の標識のついた信号機が設置されている。

車は見えない。横断歩道を横切る車はもちろん、左折してくる車、右折してくる車さえない。信号機がついていなければ、渡っていただろう。ついていたとしても、渡ったかもしれない。しかし、私は信号の変わるのを待っていた。なぜか。

一番の理由は、そこに信号機があるからではなく、幅の狭いその道路をはさんで向かい、そこに一人の小学生が立っていたからだ。

赤いランドセルを背負っている。きっと女の子だろう。10歳くらいだろうか、最近の子どもは成長が早いらしいから、8歳や9歳かもしれない。小学生に見える女の子が道路の向かいに立っていた。だから私は、渡らなかった。その短い横断歩道を、渡れるにもかかわらず、渡らなかった。渡らずに信号の変わるのを、ただ、だまって待っていた。
あらかじめ断わっておくが、私はいわゆるロリコンではない。変態熟女嗜好者でもなければ、幼女嗜好者でも、少女嗜好者でもない。そのような変態と呼ばれるような性癖はもっていないつもりだ。子どもが嫌いなわけではない。子犬や子猫を「かわいい」と感じるのと同様に、ヒトの子どもも「かわいい」と思うし、好きだ。しかし、私はロリコンではない。

私はロリコンではない、ではどうして、一人の少女のために、信号の変わるのを待っていたのか。それは彼女が子どもで、私が大人だからだ。

「短い横断歩道なら、信号を無視して渡っても良い」そんな『間違った規則』を覚えてほしくはない。そして、それらは、ほとんどの場合において、他人から得られるものだ。たとえば、フグの毒を試すのに、自分の体を使った人はそう多くはないだろう。自分で、間違っているだろうなにかを試すのは難しい。「これくらいなら渡ってもいいだろう」そうやって試していける人がいるのは否定しないが、ほとんどの人は、ほとんどの場合は、他人からの「これくらいなら渡っても大丈夫だよ」といった意見だとか、そういった行動を見て、「ああ、なるほど、これくらいなら渡ってもいいだろう」といった判断に至るのだ。間違った規則は、ほとんどの場合において、他人から得られるのだ。

特に子どもの場合においては、それが顕著だと、私は思う。

間違った規則だけに限らず、規則には、自分から得るもの、他人から得るものがある。さらに自分から得るものには、意図して得るもの、意図せず得るものがある。私たちは「意図して得るもの」を大きくしていくよう求められる。自己啓発だの、常に新しいことに挑戦しろ、試行しろだのと、さきに書いた「間違っているだろうなにかを試す」のような形を求められるようになる。なぜなら、知っている規則が多ければ多いほど良いからだ。知っている規則を多くするのは、それらをうまく活用すれば、結果を残して、評価されるからだ。このように「自分から意図して得るもの」を大きくするよう求められるのは、はじめは、子どものうちは、そういった形にない人が多いことの証明だろう。

子どものうちには、それらはあまり求められなかった。なぜか。おそらく、得られた規則のよしあしを判断するだけの基準が、備わっていないと考えるからだろう。そして、自分から得るよう求められないとなると、自然に、他人から得るものの比率が高くなるのではないか。子どものほうが、他人から得るものが大きいのではないか。子どもの場合においては、他人から間違った規則を得るのが多いのではないだろうか。

私は、間違った規則を教える、与える大人にはなりたくない。

他人から間違った規則を得やすいだろう子どもに、回避できる可能性のある間違った規則を教えるのが良いだろうか。良いはずがない。すくなくとも私は良いと思わない。自分で判断できる段階まで、そっとしておくべきだと思うし、自分で規則を得て、それを間違っていると判断すべきだと思う。

だから、私は信号の変わるのを待っていた。私は大人で、彼女は子どもだ。間違った規則を彼女に教えるべきではない。正しい大人の見本になりたいと、私は思う。だから、私は信号の変わるのを待っていた。

しかし、彼女は信号を無視した。信号を無視し、信号を待つ私を無視した。私は無視された、彼女に無視された。特に迷うでもなく、彼女は当然のように無視した。

私は、信号が変わるのを待って、その横断歩道を渡った。