鬱日記

最悪の一日だ。憂鬱な気持ちではじまり、これを書いている今もなお憂鬱である。暗い、どんよりとした気持ちで居る。

珍しく夢を見た。詳しくは覚えていないが、誰かと街を歩いていた。誰かは覚えていない。きっと女だ。でなければ、こんなに惜しい気持ちになったはずがない。なにか電子音のようなものが聞こえて、(顔さえもよく覚えていない誰かに)断わって様子を見ようとした覚えがある。ふと気付けば、目の前は7セグメントディスプレイの花が一面に咲き乱れていた。4台のデジタル時計と1台のアナログ時計が、「こちらが現実ですよ」と微笑みかけていた。うち3台は意図的に人を不機嫌にさせるために作られた音で呼びかけていた。

不愉快だ。誰のせいかと言えば、もちろん自分のせいである。自分が意図した時間以外にそれらは鳴らない。そのように出来ている。しかし、納得出来ない。はっきりとは覚えていない、だが、この時計達の言うところのほんの数秒前まで、自分は誰かと話していた。誰かに断わってここに来た。間違いない。どんな話をしたのだろうか、きっと楽しい話をしていたに違いない。幸せだったに違いない。得体の知れない「惜しい」感覚が、それがその証拠だ。

どうして呼び戻した。どうして言われたままにしか動けない。良い夢を見たという幸せより、その夢がなんだかを記憶せぬうちに、こちらに引き戻されたという不幸せが、大きく残った。ただただ、残念でならない。納得ができない。左手で目頭から頬にかけてを押さえながら、ぺったりと尻を床につけ、体操座りのような格好で、ぼんやりとした頭で、五感のどこに残っているのかさえ分からない、どうしようもなく虚しい感覚を味わった。

今日は、私以外の状態は良い状態だった。全体としては、いつもより良い状態だった。全体のやる気さえあれば、できる状態にあった。けれど、私の言葉や行動はすべて裏目に出た。やればやるだけ、駄目になった。私の言葉は全体の空気を悪くし、私の行動が全体を嫌な気持ちにし、私の存在が全体のやる気を奪った。結果として、全体が悪い状態になった。私は、そこに居なければ良かった。居る必要がなかったし、YやTのようにそこに居なければ良かった。Hは私を冷たい目で見た。Hは一言も発しなかった。しかし、その目は私を「Yのようだ」「Tのようだ」という非難し、否定した。私自身、Yのようだと感じた。空気の読めない奴になったと感じた。Yの気持ちになった。居づらかった。消えてしまいたかった。霧散してしまいたかった。居なくて良いなら居たくなかった。こんな状態で生きていられるYを尊敬した。Yを尊敬する自分を気持ち悪いと感じ、そんな風にYを蔑み続けることを暗黙のうちに要求され、それに応えるしかない自分を情けないと感じた。

学校からの帰り道のことだ。前を歩いていた女が赤いハンカチを落とした。とっさに拾って、渡した。「ありがとう」と言われたような言われなかったような、そんな感じがしたが、聞きとれなかった。というのも、私はうつむいて、足早にその場を去ったからだ。女と目の合った一瞬、女は笑っていたような気がする。

女のそれは、みにくい私への嘲笑だろうか、感謝の気持ちの表われだろうか、それとも、なくしてしまうはずだったものの返ってきた喜びだろうか。嘲笑っていても、気付かないほど間抜けな私は、図々しくも、これを感謝の笑顔だと思った。以前友人に送ったトラックバックからもわかるように、私は自意識過剰だから、私に対するものでなくとも、まるでそれが私に対するものだと勘違いしてしまうことが多い。しかし、私は、当然のことを当然のようにした。そこに当然の感謝が生まれ、それが笑顔として表れたのだ。私はそう解釈した。図々しくも、「あれは私に対する感謝の笑顔だった」そう解釈した。

そして、私は「私への感謝の笑顔」であるそれを無視して歩き去った。素直に笑顔に対し、笑顔で応え、それから、去れば良かったのだ。それが普通であり、常識であり、私の目指すべき一つの形であった。しかし、私は去ってしまった。相手は押しつけられた親切によって、作りたくもない借りを作ってしまった。これによって、相手はどれほど不快になっただろう。私は良くないことをした。最低の人間である。

しかし、そもそも、相手があれを親切と感じていたとしたらそれは間違いである。私には親切をしてやろうという下心などすこしもない。ただ、目の前にものを落とされれば拾って渡す。パブロフのなんたらのように、社会によって道徳という名の条件付けをされていて、そうするより仕方なく、それを拒絶する権利さえもたない。社会の犬なのである。道徳の犬なのである。考えない犬なのである。

それにきっと、私は(こう書くと御犬様に失礼だが)犬よりずっと、ひどい顔をしていた。相手が、笑顔という普通な常識的な対応でもって返したとき、私はきっとひどい顔をしていた。イライラしながら、ブツブツとつぶやきながら歩いていた。それを止めるかのように赤いハンカチが目の前に落ちた。私は牛ではない。赤を見れば止まるし、それがハンカチならば拾う。それだけ見れば牛ではなく人なのだが、私は牛や犬といった畜生よりもずっとみにくく、そして悪なのだ。私のつぶやいていたそれは、友人への怨恨や、そういった感情を抱く自身への呪詛といった自傷だった。何も知らぬ、赤いそれの持ち主は、自然な笑顔を返した!何度も言うが、私はそれを期待したわけではない。感謝を求めたわけではない、そうなることが分からなかったわけではないが、だが、むしろ、そういった状況に耐えうる状態に私はなかった!とっさに笑顔を返せるだけの状態になかった!

だからこそ、そのまま無視してしまおうか迷った。ハンカチの一枚や二枚は、この豊かな日本においては、どうということのないものだ。一日働けば、それこそ何枚でも買うことができる。私でさえ、そうなのだから、前を歩くあの女ならもちろんのことだ。どうするかほんの一瞬──二度まばたきをするかしないかほどの短い時間──迷ったあと、私はそれを手にとり、前を何も知らず歩く女に手渡した。赤いハンカチは、ほんの一瞬──あくびをしたあと、のびをするほどのそんなに長くない時間──の持ち主不在の時を経たうえで、持ち主の手に戻った。

みにくい顔の、みにくい心の男から、自身の赤いハンカチを受け取り、必死に笑顔を返したにもかかわらず、目をそらされ、「ありがとう」の言葉は無視された女は、一体どんな気持ちになっただろうか。嫌な気持ちになったに違いない。そして、自身だけでなく相手までもそのような嫌な気持ちにした私は、誰がなんと言おうと最低であり、クズである。
時間といういかなるものより価値のあるそれを、このような駄文に費やした。世界でも特に人の生産に費用のかかるこの国で、私はその価値を見い出せず、既にある価値を有効に活用せず、時間をただひたすらに浪費した。私はクズである。死ぬことが許されるのであれば、死にたい。死ぬ勇気があるならば、死にたい。損失を計上し続ける必要はない、どこかで損は切り捨てるべきだ。死ぬべきだ。死なないのならば、損を出さないよう変えるべきだ。しかし、変えられない。変える勇気も意欲も持たない。だからこそ、私はクズだ。価値のないものだ、クズだ。私は死ぬべきだ。死ぬべきだ。