メモ「形状記憶」

アルバイトをしていて、ふと、「自分が自分の形を維持していることってのは、実はものすごいことなんじゃないか」と思った。自分の手がいつも自分の手の形をしていることはすごいことなんじゃないか、動いても自分の形を維持していることはすごいことなんじゃないかと思った。

ここでいう自分の形っていうのは、スタンスだとか、モチベーションの高さだとか、そういうもののことじゃない。もっと物理的な、手があって、目があって、口があってってそんな次元の話。だから、継続的に勉強している(良い形を維持できる)のがすごいとか、原子力発電には反対の姿勢をひたすらに貫いている(そういう考え方をもった形を維持できる)とか、そんな話じゃない。物理的に、自分が自分の形を維持している、できていることはすごいことなんじゃないかって話。

たとえば、眼鏡で考えると、形状記憶フレームってのは、それだけで一つの価値だ。金属はその形状を維持するだけで価値があるってことだ。じゃあ、自分が自分としての形を維持していることは、すごいことなんじゃないか。夜寝て、朝起きても同じ形を保てているのは、すごいことなんじゃないか。年齢によって、しわができる程度の劣化で保てているのは、すごいことなんじゃないか。

もしも、自分が泥人形だったらこうはいかない。歩こうとして、足を動かしたら、それだけで足がちぎれてしまう。レジ打ちや袋づめはおろか、ラジオ体操さえできない。

そういうことを、自分がコンビニエンスストアのレジの前で立って、渡された商品のバーコードをレジに登録して、袋につめて、ってそんなことをしていて、眼鏡や、泥人形を考えると、自分の形を維持することはすごいんじゃないかと思った。

ここから「どうして、そんなことを思ったのか」というところに、考えが移った。

これは「幸せの基準」を下げようとしているんじゃないかと思う。

明石家さんま座右の銘である「生きてるだけで丸もうけ」、あれと同じ考え方だ。この言葉は、基準をどこにもっていくかで物事の見え方は大きく変わる、そういう言葉だ。生きてるだけで〜は、生まれた瞬間は、人は裸でただ泣いてるだけからはじまった、そこを基準にすれば、服を一枚もらうだけで丸もうけじゃないか、ってそういうことを言っている。そして、これは先にも書いた「基準をどこにもっていくかで物事の見え方は大きく変わる」ということと伝えるための、良い例だと思う。

どうして「幸せの基準」を下げようとしていると、私が思うのか。それは、課題の進捗がよくないことや、疲れのたまっていることなど、私の今置かれている状況が、以前の「幸せの基準」で見たときに、不幸せな状況だからだ。

不幸せな状況に置かれたときの対応は、人それぞれだったり、時々だったりすると思うが、変化させる対象として「自分」と「自分以外(周囲の状況)」の二種類にわけられる。今回は、自分を変化させることで、不幸せな状況を打開しようとしているのだと思う。「その場に存在している、そのこと自体に価値があるんじゃないか」と考える。基準を「生きている、そこに居る、形を維持できている」というところに引き下げることで、他のできごとを良いものとしてとらえようとしている。不幸せな状況を、幸せな状況として捉えるようにしている。そう考えるとすっきりとまとめられる。

つまり、自分はいまひどく不幸せな状況にあって、その状況を打開するために「幸せの基準」を引き下げている。その結果として、形を維持していること自体に価値を見出せている。

これが良いことか、悪いことかは、また考え方による。それは、また別個に考えることにしたい。

日本語のおかしなところがあったので修正