藤沢 晃治『「分かりやすい教え方」の技術』

私と先生と友人との三人が居た。ある日のこと友人はある能力を身につける必要が生じた。それを見て先生は私に言った。君が友人にその能力を身につけさせなさい、と。

さて、私は友人にその能力を身につけさせなければならなくなったわけだが、ここで問題だ。私にはその能力が備わっている必要があるだろうか。

答えは「ノー」だ。もちろん備わっているにこしたことはないが、備わっている必要はない。オリンピック選手のコーチにオリンピック選手以上の能力があるなら、その人がオリンピックに出ればいい。教える側に「教えなければならないその能力」が備わっている必要はない。

教えるという行為は能力のある者からない者への伝達ではない。教えるという行為を、教える側から教えられる側に流れていくイメージで捉えてはならない。教えるという行為の目的は「能力を身につけさせる」ことであって、一方的な伝達はその手段の一つでしかない。また、それが教え方として適切だと私は思わない。

では、どうすべきなのか。友人の能力を引き出すのである。与えるのではなく、引き出すのである。あくまでも友人の能力を生かすのだ。「自分が相手に力を与えられる」などと考えるのは思い上がりである。私のすべきことは、友人の能力を引き出すことだ。

ここで能力の話に戻ろう。友人に能力を身につけさせる際に必要な能力の話だ。私は先に「教える側に「教えなければならないその能力」が備わっている必要はない」と書いた。しかし、あらゆる能力が必要ないと書いてはいない。実は一つ能力が必要なのだ。

それが「教える能力」である。

教える側――私に求められる能力は「教える能力」である。教える能力があれば、教えなければならないその能力がなくてもいい。教える能力とは相手の力を引き出す能力である。時に叱り、時に褒める。意欲を引き出し、能力を上げる。そういう能力である。

ここまでの仮定のお話では私は教える側だった。だが現状では私は教える側になく教えられる側にある。しかし、それもたかだか数年のことだろう。そのうちに教える側になるに違いない。「教える」ことは、いずれ必要になる能力の一つだと思う。だからそれまでに十分な準備をしておきたい。教えるということについて整理をしておきたいと思うのだ。

そのきっかけになるような一冊を考えた。そして本書を手にとった。この文章のようなことも本書には含まれている。最良の選択だったかは分からない。ただ、自分がぼんやりと感じていた教師への不満が分かりやすい形で示されていたと思う。

私は、尊敬されるような「教師」になりたい。