境界線

基本的に、動画は静止画を連続して見えるところまで素早く切り替えることでできる。切り替えが遅いと、スライドショーのようになる。切り替えがある程度早くなってはじめて、切り替えのある静止画たちは動画になる。

一線を越えたとき、別物になる。はっきりと線があるわけではないだろうし、人により差があると思う。おおよそ、誰もが別物だと感じられるところに線が引かれている。線を引くのは俺じゃなく、知らない誰かだ。

線は気づいたら引かれていて、「そこをへだれば別物なんだよ」と、あたかもそこにはじめから線があったかのように教えられる。

俺と客との境界は、レジの置かれている台だ。そこをへだてた向こう側が客で、こちら側が店員だ。客は線をそこにあるのが自然であるかのように振る舞う。そう教えられているからだし、そう思いこんでいるからだ。両方に立つことがある者でさえ、線をはっきりさせることを好む者さえおれど、線をあいまいにすることを好むものは居ない。

きっと、この線をあいまいにすれば、世界全体が別物になる。動画も静止画も同じデータとして捉える世界になる。あらゆる線を消していけば、それは線を引くことで生まれたものは消え、それとは別の何かが生まれる。

どこまで線を消すと、俺にとって最も都合の良い結果をもたらすのか。その線を、その線の引き方を俺は知らない。