先輩

一人の女性が「ありがとう」と言って、去って行った。アルバイトでのワンシーンだ。レジ打ちをしているとよくあることなのだが、そのとき、僕は、ふと高校時代の先輩のことを思い出した。

高校時代の部の先輩。二つ上の女性だ。僕は彼女が苦手だった。

先輩はお嬢様で清楚で上品な一方、僕は庶民で、おまけにひきこもりだった。会話はかみあわないし、落ち着かない。なにより釣り合いがとれない。「釣り合いなんて必要ないだろ」と言われればそれまでだが、釣り合いなんてものを意識させられたのは、先輩が僕を後輩や友人として見ていなかったからだ。彼女はしばしば信じがたい行動をとった。そして、それの意味するところが、僕に対する好意であることは、誰の目にも明らかだった。

彼女が僕をどう思っていたか、はっきりは分からない。恋人だかペットだか玩具だかは分からないが、僕との接触をやたらと望み、僕はたびたびそれを逃れるために、難聴のふりをした。

ある日とうとう追い詰められた。なにかイベントの打ち上げだったと思う、背後から急に声をかけられて、つい返事をしてしまった。僕の前には三人の先輩が居た。一つ上の先輩二人と、例の先輩だ。一つ上の先輩二人とは、当時、僕は仲が良かった。僕に声をかけたのはその先輩のうち一人だった。その先輩が「先輩と散歩してあげて」なんてお願いするものだから、どうしようもなかった。「ええ、まあ、はあ」なんてあいまいな返事をしてみたが、その時には既に例の先輩は「なにをそんなに」と言いたくなるほど緊張した面持ちで二人の先輩の後ろに立っていて、とてもじゃないが、その先輩のお願いを断わることはできなかった。

先輩と薄暗い道を歩きはじめて、数分。僕と先輩を隔てるものは、せいぜい一メートルかそこらの空気だけだった。頼りない空気をはさんで向こう側には、先輩が居た。みんなが見えなくなった。わいわいと騒ぐ声も聞こえなくなった。二人の間に犬でも居てくれれば、もうすこし気楽に歩けるのにと思った。沈黙を破ったのは先輩だった。「手、つなご」と、そんなことを言われた。いつもと同じ調子だが、いつもとは違い、断われる雰囲気ではなかった。

なぜだかひどく緊張した。先輩も緊張していたから、僕と先輩の間にあった空気もまた緊張していた。緊張のせいか空気は僕と先輩を完全には隔てられなかった。ほんのすこしだけ、先輩と僕はくっついていた。

なぜそんなことをしたのかわからない。ただ、先輩は二十分ほど歩いたあと、僕に「ありがとう」と小さな声で言った。とても小さかったから、難聴の僕には分からなかった。僕は、その日がなんのイベントだったかも覚えていない。

それに僕は部になんて入っていない。