基本日記(5.5)

01:00-06:30。夢なし。

トースト(チョコ)とミロ
おにぎり(シーチキンマヨネーズ)
ごはんと餃子とうにくらげ

昼は抜いてしまうつもりだったんだけど、友人がおにぎりをくれた。神。夜は父が惣菜を買ってきてくれたので、それを食べた。

ちょっと真面目な話。

友人が「どうして、そんなに必死に本を読むのか。義務感か。そんな風に読んで楽しいか」と、そんなこと言った。ひどく動揺した。とっさに「義務感かもな。でも楽しいよ」と答えた。確かに、自分は読書を最優先にしている。そりゃもう必死に見えるだろうし、実際必死だ。たかだか200頁だか300頁だかの本でも一日一冊読むのは、元々本を読まない人間だもんで厳しい。ましてや、「お前本当にちゃんと読んでるのか」と思わざるを得ないようなことを書いているわけだ。「そんな風に読んで楽しいか」というのは、まっとうな疑問だ。

アニメ「俗・さよなら絶望先生」の三話だったかに、誰も期待していないのに、勝手に義務だと思いこんでいる、という話があった。狙えは、おれは、まさにそれだろう。一日に一冊読まなくても、誰も責めないし、狙えの更新に誰も期待なんてしていない。「自意識過剰義務」もいいとこだ。

先週だったか先々週だったか、その友人に「読書は、時間に対して得られるものが少ないような気がしている。これはもしかすると無駄なんじゃないかと思っている」と言った。そしたら、そいつは「損得勘定していること自体がおかしい」と言った。こいつはどんなことを考えて本を読むのだろうか、そう思って言ったのだが、考えてみれば随分と失礼な話だ。

土日、「読書」について調べてみたり、考えてみたりした。どちらかといえば自分の読み方は、精読ではなく速読に近いなと思った。じっくりというよりは、ざっくりと読んでいる。あまり深く考えないし、読解能力や理解力や国語力のない自分には、話の流れを理解するくらいでやっとだから、ざっくりと読んでいるのではなく、ざっくりとしか読めない。(友人はそんなものにこだわる必要がないと言いそうな)目的だが、しいて挙げるならば、「人に見せるための趣味」なんだろう。楽しいのは楽しいんだけど、テレビをぼんやりとながめているようなものだ。能動的な部分よりも受動的な部分の方が大きい。人付き合いのための趣味、「人に見せるための趣味」なんだろう。読んだ本を書いているのは、習慣付けのためもあるが、「人に見せる」という部分を端的にあらわしていると考えられるんじゃないだろうか(まるで自分のことじゃないような口ぶりだなあ)。

本との付き合い方が友人と違うのであれば意見があわなくても仕方がないし、どうせそいつのことだから、おれに対して「そんなのはいけない」などと口出しするようなことはない。せいぜい「それで楽しいか」と問いかける程度だ。

ナ・バ・テアの中で、「彼女の意志が〜」という部分を印象的だったと書いた。それは、自分にとっての読書が、ちょうどそんな風に気付いたらどこかに残っている、そういうものなのかなと思ったからだ。もうしばらくこれを続けてみてもいいんじゃないかと、そんな結論に至った。

だらだらと書いちまった。最後は特に関係のない友人の一言でしめたい*1。「なんでナ・バ・テアから読んでんの。あとスカイ・クロラは微妙だったんで途中で切ったよ」。これはひどい「一刀両断レビュー」ですね。

追記: ナ・バ・テアを26日に書いているので、先の会話が先週末のものだったことが分かった。記録に関してはしておいたほうがいいのは確からしい。わざわざ狙えに書かなくてもというのは否定しない。

さらに追記: もっと関係ないけど、いいかげん Vim について書かないとマズいと思う(これも自意識過剰義務ですね!)。

*1:まるで友人の日記だった